こんにちはー、ヒーラーの大澤です。
前回は【「相手を敬うこと」と「自分を低くすること」は全く別次元の話、自分を下げなくても相手を敬うことは出来るはず】というお話をしました。
さて、前回の記事で『謙遜は別に必要なくない?』というお話をしたのですが、こういうお話をさせていただくと
「TPOに適した正しい態度や言葉遣いをしないのは相手に失礼でしょ」「『謙遜は必要ない』なんて、社会人の礼儀作法・マナーとして間違ってる」
と思われる方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれませんね。
確かに、TPOに応じた態度・言葉遣い・礼儀作法・マナーを意識することは、この現実世界を生きていく上でとても大切なことですよね。
それによって誤解や衝突を避けられることも往々にしてあるし、相手に敬意を示したりコミュニケーションを円滑に進めることも出来ますから。
ですが、正しいか正しくないかという判断基準で物事を測るのは、ちょっとスピリチュアル的ではありません。
何故なら、正しいか正しくないかという判断基準は外側に目が向いていることになり、それは人を裁く種になるからです。
スピリチュアルの基本は「自分がどうしたいのか?」「自分はどう思ったのか?」であり、また愛を持って接することを良しとしています。
この時、物事の判断基準に「正しさ」「正義」を置くと非常に厄介になります。
たとえば、老若男女どんな方にも当てはまるマナー・礼儀作法として『挨拶』がありますね。
明るく元気な挨拶はする方もされる方も気持ちが良いですし、エネルギー的にも挨拶は言霊・音霊(ことだま・おとだま)となって場を清めてくれます。
ですがここで『挨拶をする人=正しい、正義』『挨拶を返せない人=間違ってる、悪』という捉えてしまうと
次第にその価値観を強要したり、出来ない人を裁いたり、酷い場合には正義の刃で相手を傷付ける可能性も出てきます。
そうなったら『正しい』『正義』が何なのかサッパリ分かりませんし、ましてや『愛』かどうかも甚だ疑問です。
人間には感情・欲というものがあるので、自分が大切にしていることを受け入れてもらえなかった時には、イライラしたり悲しい気持ちになることもあるでしょう。
しかし、もしこの時にスピリチュアル的な捉え方の基本である『自分はどうしたいのか?』『自分はどう思ったのか?』という基準があれば
「他人は他人、自分は自分」と割り切って必要以上に相手に求めなくなるし、外側の出来事に振り回されず穏やかな気持ちでいられます。
更に、挨拶の話でいえば「挨拶をしてもらえないのってやっぱり嫌だな。私は挨拶をするようにしよう」と自分の気持ちを再確認することも出来ます。
どうしても一言言ってやらないと気が済まない!という場合は「挨拶してもらえたら私は嬉しいな」「返してくれなくて悲しかった」とだけ伝えれば良いです。
自分の気持ちを伝えることはただの意思表示・自己表現であり、相手を裁くことではありません。
今回は相手ありきでお話をしましたが、どうかあなたが自分自身に課した正しさや正義で自らを裁いたり傷付けたりしませんように。
それではまた後ほど~(^^)/